感じるのと考えるの動くのと関わるのとひらめくのと

創造性の源泉って、
生活の小さな当たり前の連続から生まれなくちゃって思うのだけど、
そうじゃないスーパーな頭脳の持ち主もいるみたいだ。
でも、そういう人とそうじゃない人の間の違いってなんだろう。
その埋めるのが難しいような場の違いにこそ照射して何かを突き止めたい。
塩梅の世界なのだろうかって。

仕事再び始まるの日

七月最初の月曜日。
不思議なご縁で同じ職場で仕事再スタートの日。
ひと月前に温かく送り出してくれた人達との照れ臭い再会。
でも、みんな嬉しく出迎えてくれた、と思う。よかった。

養老先生のお言葉、
「仕事というのはね、社会の穴を埋めるためにあるんだよ」
ついつい気づくと仕事のあれこれが頭の中を占めてしまう。
大したことでもないのに。

残りの人生の時間を生かすために、もっと大事なことがある。
そのために生まれてきたんだなって、実感を一瞬でも感じ取れるような。
いっぱい傷ついてその分、そのエネルギーを何か形あるものに注ぎ、
そっと後世に残せる様なもの。家族も小さいから。

明日からしばらくは山登りが続きます。

日常の最初のひとつ

朝起きて、日常を始めるために行なっていることのひとつ、
そして思い返すとずっと中学生くらいから欠かさないできたこと。

それは、ご先祖様、仏様とマルチーズの愛犬チコちゃんに、
お水とお茶とお供えしてお線香炊くこと。
まずは日々の感謝をことば少なく唱える。

これはちょっと誇れる習慣だ。
でも自慢なんてしたら一瞬でご利益が消えてなくなりそう。。

日常だから、お供えの干菓子や果物、
お花が取り替えてあったりすることに気づいたりする。
その瞬間は、母にやられたと思うとともに、あとで言葉を交わすきっかけにもなる。

「あら気づいたの、偉いでしょ、わたし」って、
向こうから返ってくるセリフ、ほぼ想像できるのだけど、
そんな内から聞こえてくる小さな己のやりとりを聞くのが好き。

日々の暮らしのこと、頑張ってことばを紡いでみよう。

誰もいない海

確かそんな歌い出しの歌があった。口ずさむひとは、誰かがきっと待っているからそんな歌を歌えるのでしょう?
海にひとりたたずむだけで泣けてくる。それは自然がやさしいから。ひとは勝手に悲劇だとか噂するのが堪らなく好き。そのくせ大きなお世話は本当に気まぐれ。そんなことを耳にしたらたちまち制御不能になってしまう。小さな記憶がいのちに変わるような経験が欲しい。みんな当たり前のように持っている手応え。たとえ漕ぎ手ひとつでいのちのゴールを迎えるとしても。

ことだま

人として生まれたことで備わっていくもの。自分の中に表れては消える己の姿。そこにことばの力を添えて浮かび上がってくる。少し安心する。
背丈をただしく着せてやる、もっと安心して安堵する。そしてつながる道が現れる。
「ことだまのさきはう国」なんて素敵な命名。辿り着く先の様々な出会いを期待してしまう。学ばねば。

かなわない

ちゃんと日光に当てて殺菌しなくちゃいけないんだと、はためくパンツの洗濯物。笑
まるでそれは鯉のぼりのごとくきれいに物干し竿を潜って干されている。
絶対、上の家から見えているのよ、やめてよ、といってもお構いなし。
おばあちゃんはね、私が子供の頃は、洗濯物を川まで運んで洗濯板で洗って、
それから物干しで五人の兄弟の下着を太陽の光をしっかり浴びるようにって干していたのよって。
ああ恥ずかしいったらありゃしない。けれど、これ以上怒れない。
小さく丸くなった背を一生懸命伸ばして頑張っているのだもの。
あぁもう構わない、我が家の8050鯉のぼり。